星座になれたらを初めて聞いたときの感覚とフルサイズの歌詞を読んで思ったこと

星座になれたらを初めて聞いたとき、後藤ひとりっぽくない歌だなあって思いました、後藤ひとりが自分を星に例えた歌詞を書くのかなって。後藤ひとりが作詞家であり、結束バンドとして求められているものを仕事として行っているのであればそういうこともあるかもしれませんが、4話において後藤ひとりらしい歌詞(本人評では暗い歌詞)を書いて欲しいと言われているのだから、基本的に後藤ひとりが自分の価値観を反映させながら、中学生のときの言葉をまとめたノートを参照しつつも、結束バンドで過ごす時間とともに内容が変化していく、私小説的だったり、自己投影が強いものというのは分かります。

 

そういう意味で(どういう意味で?)忘れてやらないの歌詞は、陽キャに暗い歌詞を歌わせるのって面白くない?という趣味があらわれていて、学校を中退したいと言っている後藤ひとりが、お前たちは学生時代に思い出補正がかかっているかもしれないし、私のことなんて覚えてないかもしれないが、私は隅々まで覚えているからなという怨念じみた感情を笑ってやんのさというマイルドな表現にして、曲調もテンポ速めのポップチューンで初めて聞いたけどノリ良い曲想でいいねと思わせる、山田リョウの作曲の手腕が光っている曲だと思っています。

 

で、星座になれたらなんですけど、先に述べた通り、私は後藤ひとりが自分のことを星という言葉で例えることができないと思っています、自分のことを「眩し」いと表現するにはまだ時間がかかるだろ、バンド初めて半年だぞ、3年間で登録者3万人突破しているにも関わらず、人との交流の中で、人の形を失い、死んだりする人がそこまで書けると思えない。

では、星とは誰かということなのですが、後藤ひとりが、喜多郁代が山田リョウに持っているであろう印象をベースにしつつ、少し自分の価値観を添加している歌詞ではないかなと思っています。これは後藤ひとりが喜多に対して、喜多らしい歌を学園祭で歌って輝いて欲しいというサービス精神によるものだと思っています。後藤ひとり、良いやつなので。どんなに探してみても一つしかない一番星は山田リョウであり、喜多にとっては楽器ができる人と楽器ができない人という、超えることができない距離がありました。そして、一度、嘘をついてバンドに入ったものの、結局離れ離れになって仕舞います。山田リョウというステージ上で輝く星と、イソスタフォロワー1万人超えの喜多郁代の輝きは、全く異なるものであり、星座になるにはあまりにも遠すぎたのです。ここまでが6時。

 

時は過ぎ8時。ここが私の感覚だとかなり苦しくて、満天の星っていうのは、数多あるライブハウスやバンドマンとか、まあ、どうとでもいえるのですが、いつの日にか別れが来るっていうのが、結束バンド全体の雰囲気としてなさそうでズレている気がするんですよね、歌詞の流れの勉強とかもしているみたいだから永遠に続くなんていうものはないというような、レトリックなのかなあって思っています。2サビはかなり後藤ひとりっぽいんですよね、誰かに届いたらっていうところなんかは。山田リョウが言っているように、少ないかもしれないけど誰かに深く刺されば、そういうのってなかなか可視化されないので届いてるのか届いてないのかって分からなくて(私が描いてるこういうブログも届いているのか届いていないのか分からないし、でも、そもそも誰かに届けたいとあまり思っていないものではありますが)結構思っていることが率直に書かれてるところだなって思います。あ、でも、あなたに届いたらとか君に届いたら、なんて恥ずかしくて書けないな、誰かにっていう言葉ではぐらかしているけど、これは明らかに君に届けたいということを歌っている気がします、だからギターボーカルを練習して変わりたい、届けたいということを喜多を見ながら後藤ひとりが解釈していたのか、そういうことにしましょう。

 

で、Cメロみたいなところ。私はここに後藤ひとりが登場していると思っていて、カルマが後藤ひとりだと思うんですよね。そういう表現だったらしそうな気がするんですよ、しませんか。山田リョウと喜多郁代は何度も出会ってしまうわけです、ライブハウスで一目ぼれして、嘘ついてバンドに入って逃げて、後藤ひとりのバギボでまた出会ってしまう。

ラスサビはもう言うまでもないですよね、ステージで輝く憧れの山田リョウの隣でギターボーカルをやり続ける覚悟を歌っています、オーディション、台風の日のライブ、学園祭、月が移り変わっていっても後藤ひとりが繋げてくれた線を解かないってきっと思ってくれてるよね、という後藤ひとりの喜多に対する思いが見え隠れして締めくくりです。

 

これがまず最初にぼんやり星座になれたらを初めて聞いたときの感覚とフルサイズの歌詞を読んで思ったことです。

でも、星座って複数の星で成立しているわけだから、この喜多郁代が僕で山田リョウが君というパターンだけでなくてもいいわけです。山田リョウにとってはベーシストとしてあらためてステージに立って欲しいと言ってくれた伊地知虹香は眩しかったでしょうし、面白い歌詞を書いてくれると期待している後藤ひとりのこともそのように見えていたと思います。伊地知は逆に山田リョウのことをそう思っていたことでしょうし、ギターヒーローとして弾いてみた動画での出会いが実は後藤ひとりだったという意味で特別な存在でもあります。そして、歌っている喜多郁代にとって、もしも結束バンドに入っていなかったら山田リョウが眩しい星だったかもしれませんが、結束バンドを通じてギターを教えてくれて、ここ一番のところで冷めたライブハウスの空気に一撃を加えてくれた後藤ひとりが眩しい星だと思っているはずです。このように解釈がかなり緩くできるのではないかというところが、私が星座になれたらの歌詞が好きな理由で、真夜中のプリズムって、まさに個性が合わさってひとつの色になる、ここであれば星座になるというのが爽やかでいいなって思います。

 

なんとなくつらつらと書きましたが、私のこの見方が合ってるか分からないけれど、最初に感じた違和感を強引に説明つけるとしたらこんな感じです。説明にはなってないか。まあ、いいか。(まあを満たした)

 

では、ごきげんよう