サブカルチャーの批評性

少し前にツイッターのフォロワーが某アニメ映画に対して話としてクソ、幼稚な語彙力を使いながらキャラクターを動かしてウケの良いことしてるだけ(と私は解釈した、某アニメ映画を見ていないから)ということをツイートしていて、アニメ映画は見て良いないものの放映されていたアニメは配信で見ていて、1期の作風とかに惹かれた人間としては凄く分かるなあと思ってRTしたのだけれど、そのRTに対して(と私は解釈した)アニメ映画における物語は作品を楽しむための1つの装置に過ぎない(のだから、それを楽しめなかったのはお作品の問題ではなく前の趣味の問題だ、と私は解釈した)といった旨をツイートしているフォロワーがいた。

 

ということをシャワーを浴びながらふと思い出した。

 

ここにおけるすれ違いというのは、アニメや漫画に対する現実に対するメタ視点であったり、現実にた対する批評性を作品に期待するかどうかという点にあるような気がした。漫画やアニメは映画や小説に対するサブカルチャーとして生まれてきて(とはいうものの映画や小説もまた現実に対する批評性を帯びているのだが)それらの中でメインストリームにあったサブカルチャーとして呼ばれる代表的な作品はそういうものが求められているように感じる。戦後において、映画や小説の批評が一定層に支持を得たのはそれがアクセスしやすい娯楽である一方で、現実の見方に影響を与えうるような役割を担っていたからなのかなと思う、今は全然そんな感じじゃなくて、どちらかというと、その作品の世界観の壮大さだとか、人物の言葉や行動を通じて、癒されるような、現実とは切り離され、消費するものとして期待されていて、それがそうした批評が衰退したのかなと思った。

私のフォロワーが少なくなく、批評の対象としてアニメや漫画を扱うというのは、それを使って現実を紐解くだとか、現実(に対する見方)を変えるとか、そういうのを期待して行っているように感じる(が、過剰な自己の発露もあるように思うが、それは批評の対象であったり、特定の時代といった制約はないとは思う、が鬱陶しい)。ただ、アニメや漫画はもはやサブカルチャーとしての役目を終え、メインカルチャーであり、大衆の娯楽であり、日本においては輸出する文化となった。そうした中で日本を理解するために、アニメや漫画を読み解くというのは一定の意義があるかもしれないが、昔の映画や小説のように、一般人レベルにおいては批評性をもつ作品を期待するといったことはなく、むしろ、そういったことを期待する上の世代に対して、嫌悪感すら抱いているのではないか、と先の(たった)2つのツイートを思い出して、感じた。

あと、映画にしろ、小説にしろ、アニメにしろ、漫画にしろ、過剰に自分を投影することで救われる自意識や現実世界の生きている自分は間違いなくあるので、用法・用量をもって正しく摂取するのが望ましい。

 

アニメや漫画の次には何が来るのかという話であるが、恐らくVR/ARとか、ChatGPTとか、そんなものなんじゃないかなという気がする。となると、SFなんかにもまだまだ可能性はあるのではないかという気がするが、それが例えば三体シリーズなのかもしれないなと思った。三体読もうと思ってまだ読んでません。

 

今日は昼過ぎに起きてゴルフの自主練をした。新しいルーティンはすぐに慣れた、気にならなくなった。良い感じ。帰り道にビールを一杯飲んだ。部屋ではだらだらとトパンガチャンピオンシップを見た。ときどが全勝優勝、強かった。

 

では、ごきげんよう