音楽と読書が好きな、インターネットによくいるサブカルクソ野郎です。気づいたらサブカルクソ初老になっていました。
以下、私的おすすめ記事です。
続きを読む先月末にやった血液検査の結果(メンヘラは定期的な血液検査をするのである)コレステロール値が正常値になって、今行っている血液検査の結果のみで見る限り、異常値はなくなった。この歳にして、健康になってきた?俺の知り合いは人生で初めて体重80キロを超えたって先日インスタグラムに子どもの画像をあげてたけど。
とりあえず、一旦、忙しい時期ではなくなったので、少し落ち着いてインプットに取り組んでいきたいと感じている。とりあえず、毎月更新するようなドキュメントは全部生成AIに材料を突っ込んで作らせて、俺がレビューするというかたちに変えていきたい。あとは、ゼロイチで作らなくちゃいけないものなんかも契約書とか規約とかポリシーのフォーマットは生成AIでもいいかもしれないねえ、それができたら、個別の要件を伝えるみたいな感じ。
生成AIと人間が作ったものは、まだ区別がつくことが少なくないけれど、特に労働によって生まれる生産物の大半(俺は基本的に資本主義社会において大量生産に関わる労働力というのは代替可能なものだと思ってる。だから、賃金が安い。代替が難しいものほど高くなる。まさしく物象化なわけだが)は、代替可能なゆえに、「これくらいで十分」という価値観が広まるほど、労働者は生きるのがしんどくなっていくと思う。
産業革命のような時代を迎えていてかなりテンションは上がるけれど、これから先、生き残っていくためには、というか、俺は金に困らず生きていきたいのだが、どうやったら楽に生きていけるんだろうと考えてしまう。働かずに食いたいぜ。
では、ごきげんよう。
昨日は昼に銀座で台湾料理を食べたあと(結構ボリュームがあった)オフィスに行って、最近やっている資格の勉強をした。収益認識基準の箇所だったのだけれど、自分の理解がかなり粗雑だったことを理解した。これ、当時対応してた経理はかなり大変だったように思う。ポイントって、今、原則的には引き当てないんですね。知らなかった。こういうことがあるので、体系的な勉強をたまにはすると良いなあと思います。
その後は、今年はあまり外に飲みに行ってなかったので、荒木町へ。最初は一軒で帰ろうと思っていたのですが、二軒目も行ってきました。二軒目にて、明日は誕生日なんですよと断固主張したところ、白ワイン(シャルドネ)をご馳走になりました。ありがたい話です。前の見せて葡萄の酒を飲んでいたので、マスカットを使ったカクテル、コニャックも飲んだのですが、それらも美味しかった。素晴らしき日々......。
バタイユは、この行為をすると損をするからやらないとか、未来の利益をのために今を合理的に振る舞うような価値観、考え方に批判的なのだけれど、過度な有用性の重視はやはり心身を最終的に破壊するような気がして、至高性も一定程度大事にしなくてはならない気がしています。
そういうわけで、先日、文庫化した『至高性』を購入。ハードカバーでは途中で読むのを断念してしまったのですが、文庫になったら読めるのでしょうか。
では、ごきげんよう。
とりあえず、仕事が落ち着いてほっとした。少しゆっくりしたいけどなかなかそうもいかない。今年は資格のための勉強をしているから、とりあえず10月、決算月までは頑張っていこうと思っている。
見ることができてないガウルの温度を久しぶりにひとつ見た。
綺麗すぎて、俺みたいな人間が存在していて申し訳ない気持ちになるが、総じてやっぱり雑草みたいなのがないと、美しい花に気づけないと思うと、俺の存在も悪くないかなって救われるような気がしてきた。(自己救済完了)
結構、豪快にみえて、合理的な選択をしている人だと思う。アイドルの時間は、俺みたいな時間とは比べようもないくらいのスケジュールだと、時間の無駄遣いなんてしてられないはず。
当然のことながら、マリークレールにてヘリンがディオールビューティで表紙を飾るのは知っています。なんというか、このような状況の中で、NewJeansのメンバーとして、再活動の口火を切るのがヘリンだということを思うと、なんともいえない気持ちになります。그렇죠?
では、ごきげんよう。
日本国憲法の第1章第1条において、天皇が日本国民統合の象徴であるということが述べられているけれど、自分は政治思想をやってきたわりに、このことについてあまり深く考えていなかったのだなと最近思う。
2016年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を背景に、一代限りの生前退位を認める特例法が制定されたわけだけれど、これは天皇による明確な政治への介入だなと感じる。
また、儀礼的ではあるものの、立法、首相の任命など、天皇の承認等が必要性が残っているところに、国政に関する権能を有しないというところと、摩擦を起こし得る可能性がある構造になっているなあと感じた。ある意味では、機関なのかもしないなどと思うなどしている。そういう意味で、直近の皇室典範に対する反応と解釈せざるを得ない今上天皇の発言を踏まえると、政治的な存在であると感じた。
日本思想史の中では、「勢(いきほひ)」というものに着目し、歴史の表層には現れないが歴史を動かす原動力が存在する考えた人がいた。(頼山陽、丸山真男など)時代の雰囲気、空気感とでもいうものだろうか。
少なくとも、例えば、三権分立とか、国民主権とか、政教分離とか、基本的人権とか、いろいろ小難しくありつつも、当たり前のものがたくさんあるけれど、イェーリングがいみじくも述べているように、権利を守るためには闘争が不可欠であるということや、丸山が述べたような永久革命としての民主主義ということについて、考え続けなければならないなと思っております。
では、ごきげんよう。
早稲田松竹にて映画『ペパーミント・キャンディー』を見てきました。今回はその感想ではなく、その映画を見終わった後に、生成AIとその映画について行ったやり取りについて書こうと思います。基本的にネタバレしているので、そこのところ、よろしくお願いします。
俺:ピクニック 1999年 春から話が始まって、徐々に過去に戻っていく流れだったけれど、シーンが変わるごとに挟まれる列車から見た風景は逆再生のように感じた。その認識は正しい?過去に戻っていくということを示唆する狙いがあった?また、あの列車は単線だったが、あれは時間というのは一本線であり、複線的、別の選択肢というのは存在せず、歴史や人生というのは必然的なものであるということを含意しているようにも思う。それでは救いがなさすぎないか?
AI:逆再生か?→YES。狙いも恐らくそう。単線であるということにもあの作品の辛さが表れていると思われる。
俺:ピクニック 1979年 秋において、主人公は初めて来た場所なのに、見たことがあると話している。そして最後には涙を流して終わる。夢(コム)という単語で話をされていたけれど、20年後の未来を予感していると同時に、主人公が戻りたかった時間はこの時間だったということ?
AI:多分そう。
俺:ポスターが、誰か二人の手にクローズアップしたものだった。このシーンに見覚えがないんだけど、どこかにあった?それともポスター用に撮影されたもの?
AI:1979年のシーンにある。主人公の手のことをスニムが小さくて優しい手と述べながら触れているシーン。
俺:祈り 1984年 秋で、初めて主人公が拷問を行うシーンがあるけれど、あそこでの台詞のやり取りがよく分からなかった。軍隊に行く前は工場で働いていたんだね。
AI:もともとソウルの工場で働いていた。あの拷問はいわゆるシゴキで、警察の人間として、拷問という仕事に手を汚させる演出。それと同時に、被疑者の排泄物が主人公の手について、それを必死に洗い流すというところに繋がる。
俺:なるほど。だから、そこでスニムが会いに来て、あなたの手は変わらずにずんぐりしているけれど優しい手のままというセリフや、食堂の女性店員の尻を、スニムの前でまさぐることに、より深いニュアンスが加わるわけか。
ところで、あそこではキドを祈りと訳していた。恐らく祈祷からきていると思うのだけれど、日本語だと祈祷はかなり重たい。韓国語では、どういうニュアンスなの?
AI:日常行為において神に祈るということは、だいたいキドと表現される。他にもビルダとかあるけれど、基本的にはお祈りのニュアンスはキド。
俺:人生は美しい 1994年 夏において、引っ越しの祝い事のとき、妻の食事前の祈りに嫌気がさして、主人公は部屋を出てしまうけれど、主人公が感じる祈りというのは、弱い者が行う行為で、しかも、無力で、現実を変えることができないものだと受け取っていた?そして、そうした無力な妻にイライラすることと同じように、自分が警察という立場で他人に暴力を伴う拷問を行っている悪い人間という自覚がありながら、そこから抜け出すことができない、祈ってもしょうがない、矛盾している自分という現実を突きつけられていると感じたから?
AI:イ・チャンドンの作品において、宗教や祈りは、自分の力ではどうにもできない過酷な現実や暴力に直面した弱者がすがる、哀しくも無力な救いの手段として描かれることが多い。
俺:カメラ 3日前のシーンで、意識のないスニムに、古いボックスと、その中に入ったペパーミント・キャンディーの描写があるけれど、彼の深いところには、彼がもつ純粋さは失われず残っていて、それでも歴史的な流れ(朴正煕暗殺→全斗煥政権→兵役→光州事件→警察→実業家→アジア通貨危機→失職)に抗うことができなかった弱い存在であったこと、ただ、それと同時に意識のないスニムが涙を流したことは、確かにそこに彼が持っていた純粋さがあったということを視聴者が確認できる演出だったように思う。
AI:全斗煥政権において、光州事件もあったように民衆の暴動を抑え込むために警察を増員している背景がある。兵役を終えてすぐの人間は体力的にも鍛えられたピークの状態なので、登用されやすかったといわれている。工場と兵役しかしてこなかった主人公が、より高い社会的地位を手に入れようとしたとき、最もそれを実現する可能性が高かったのが、警察だと考えられる。
俺:彼女が食堂に訪ねてきてくれたときに、お金をためてあなたのために買ったんだと言って渡してくれたカメラを、主人公は彼女の帰りしなに返してしまう。そして、そのカメラが、カメラ 3日前で再び彼の手元に戻ってくる。でも、彼はそのカメラを売ってしまう。加えて、そのカメラの中にあったネガには、当然その日にもらってその日のうちに返しているわけで、当然何も映っていない。その何も映っていないネガを彼は広げて、真っ白だったネガを日に当てて黒くする。その黒は、彼が、彼女からカメラを受け取ったその日(そしてその日のうちにカメラを返す)から、今までの人生が、まったく無味乾燥で、真っ黒な人生だったということを意味しているように思う。だから、カメラは過去の自分の純粋さを今の自分が受け止められないから売ってしまったわけだけど、なんで値段に文句をつけたんだろう。早く手放したかっただろうに。
AI:とはいえ、彼女との思い出であると同時に、その純粋さを買いたたかれたとなれば、頭にも来るだろう。
AI:君が映画において印象的に残ったシーンがあれば教えて欲しい。
俺:光州事件で女学生を誤射する前後で、主人公が足を怪我したシーン。あれはスティグマだと思った。それと、ミス・リーとカーセックスをした後に渡されるペパーミント・キャンディー。
AI:良い着眼点だと思う。後者は、純粋さの象徴としてあったキャンディが、不倫や口臭という分かりやすい汚さを帯びて登場する。
俺:話をしていて思い出したが、告白 1987年 春で、飲食店の女と一夜を共にするけど、その後の朝、主人公はぼーっとしていて、靴ひもを直している捜査対象者に気づかないよね。そして、それを見ていた警察仲間がその対象者を追いかけて、最終的にボコボコにするわけだけど、彼はその警察仲間を追いかけるときに足を引きずっていた。思えば、彼は普通に歩くときもあれば、足を引きずるときもある。スティグマとして、心理的なものが、彼の歩き方としても表現されていたわけか。あのシーンで、同僚に、たるんでると怒鳴られるけれど、主人公の性格はむしろ、そういう、警察にあるまじきぬるさ、優しい人間性だったんだ。
AI:見ていて、一番胸を締め付けられたシーンや時代はどこ?
俺:面会 1980年5月(他のシーンは季節だが、これは5月と記載されているし、これは5月と記載しなければならない。なぜなら、このシーンが光州事件を題材にしているということを明確にするためだ)で女性を誤射するシーンもつらかったけれど、一番ということであれば祈り 1984年 秋で、スニムが食堂に会いに来たときの一連のシーン。
あのシーンは、主人公が自分を否定するシーンであり、スニムの気持ちを否定するシーン。そして、結果として、食堂の店員で尻を触った人を妻とするわけだけれど、彼女を選んだわけではなく、結果的にそうなっただけであって、不倫や宗教といったその後の一連の話を踏まえると、あのシーンに携わった3人全員が不幸な人生を送ることになるという意味で、象徴的なシーンだと思う。
そういえば、主人公は拷問のときや、自身が不倫しているときとかに、犬の真似をしていたよね。あと、犬が嫌いだって言ってた。主人公は犬のことをケっていっていたけど、例えばカンガジとか、他にも犬を表す単語ってあるよね。日本語の犬が持つニュアンスみたいに、何か侮蔑的な含みもあるのだろうか?
AI:韓国において「犬(개)」という表現は、過酷な暴力を受ける存在であると同時に、「人間性を捨てた狂犬・権力の犬」という強烈な侮蔑の意味を持っていると考えられる。カンガジとケは、一般的に、子犬、成犬の使い分けだが、カンガジは愛情や微笑ましさが込められた温かい言葉として使われることもある。他方でケは、韓国の俗語文化において極めて強い粗暴さや蔑称のニュアンスを帯びている。「ケガッタ(개같다=犬のようだ/最悪だ)」「ケセッキ(개새끼=畜生/人間のクズ)」といった言葉に代表されるように、韓国語で「ケ」という言葉は、「道徳を捨てたケモノ」「暴力」「薄汚く惨めな存在」を象徴する接頭辞や罵倒語として使われる。主人公がケという言葉しか使わないのは、自分自身が「ケ(道徳も自尊心も失った薄汚い畜生)」になり果ててしまったことを自覚していたと解釈することができる。
俺:この映画には救いがないように思える。
AI:それは間違っている。この映画が1979→1999と編集するか、1999→1979と編集するかで、かなり受け手の印象が変わるように作られていると思わないか。
もしも、自然な時間の流れで演出したら、1979年からスタートして、兵役、警察といった経歴とともに彼の内面が環境とともに変化していき、惨めで狂った破産者にして破滅者とうつることになる可能性が高い。
だが、時間を遡行していくことで、挙動不審にして狂って列車に飛び込む存在としてあらわれた主人公が帯びている、暴力性、残虐性、冷酷性を、時間を巻き戻していくことによってそぎ落としていき、それらは後天的なものであり、1979年において、名もない花の写真を撮りたいと真顔で言ってしまう、純朴な青年に帰着させることができた。そのラストシーンから、視聴者は、作品を見終わった後、時間の経過とともに環境の中で痛み、苦しんだんだということを感じられるようになっている。
この物語の流れそのものが、主人公の精神を救う編集になっていると考えられないだろうか?
俺:でも、彼は自分が加害者であることを選択し続けた。
AI:それこそが監督からの逆説的なメッセージ。そうした時代の奔流の中で自分を見失うな、踏みとどまれ、自分の足で選んだ道を歩けという、時代に染まらずに、自分の中にある純粋性、人間性を守り抜けという話。そして、その象徴がペパーミント・キャンディーであると考えられないだろうか?
俺:だとするならば、意識のないスニムと出会ったあとに改心すればよかったのではないか、1994年に探偵を雇って不倫現場をおさえる必要なんてなかったんじゃないか、1987年に行きずりの女性と朝食を取っていればよかったんじゃないか、1984年にスニムを選べばよかったんじゃないか、1980年に誤射しなければよかったんじゃないかって思ってしまうんだよな。でも、結局、単線であることが、そういうifみたいなものを拒絶装置として働いているし、もしも、そのようなifがあったならば、1979年に主人公は府警にデジャヴを感じなければ、涙も流さない。メッセージ性については、よく分かったけれど、この映画としては、やっぱりどこまでも暗い話だ。
では、ごきげんよう。
見たいなあと思いつつ(ショートでは流れてきた)、今日サジェストに表示されたので見ました。日本語字幕はなくて、英語→日本語になるけど、気にならなかったです。ウォニとミナミが出演してるTEO。
なんというか、天真爛漫さがあるなと感じる、特にウォニ。あとコジェのウォニの母親と、千葉のギャルのミナミの母親が言葉が通じないのに酒を飲んで仲良くしていて、ミナミの母親がウォニの母親のことを「オンニ」って言ってるエピソードが一番好きでした。それにしても、TEOのドヨンは最近よく泣くなあと思う。良い話だ......。
リセンヌはでも逆境を乗り越えたタイプのグループだからなあ。ウォニが最近は幸せで泣いてばかりですと言っていたのは印象的でした。ウォニとミナミの最後の感想も良かったです。
おいしいってやたらというのは「マシッソ」「モシッソ7」がに充てるからだと思ってたんですけど、ウォニのコジェの方言と相性がいいということは全く知らなかった。っていうか、分かるわけねえだろ!
ミナミ、始球式もしてた。
これ見てなかった。驚き。love attack、そんなに聞いてなかったからかな。r
runawayは見てたんですけども。runaway、ちょっとk-popっぽくないよね。クラブミュージックがベースにあるけど、バンドサウンドになってる韓国ジャンルにおけるイージーリスニングの延長線上にいる。
では、ごきげんよう。