温又柔『魯肉飯のさえずり』の感想など

京都旅行と、親族の葬式で移動時間が大量にあり、その大量な時間をもってしても小説(文庫)一冊しか読み切ることができないところに、自分の読書力の衰えを感じますが、別にその力でできることをすればいいと思っているので、気にしてはいないですが、本を10冊程度持って移動していたので、それは見なおしたいなと思いました。あたしって、ほんとバカ。

 

 

台湾人の母、日本人とのハーフの娘が日常生活の中で、他人の「ふつう」「あたりまえ」に彼女たちは傷つけられ、大事にしていたものを踏みにじられていく話です。話は、娘視点・母視点×母の新婚時代・娘の新婚時代が入り繰りながら展開していきます。人種という、アイデンティティに深く関わる部分であり、ある意味では凡庸なテーマであり、今ではフィクションよりも現実社会の方がよほど過激な面もあるでしょうが、日本という文化的に同質性の高い空間の中にあいて、異物への忌避、マジョリティによる物質的ではない暴力だとかいじめだとか、まあ、これは異国でなくても、地域とか出自とかでもそういう問題はあるわけですが、それを非常に丁寧に描写していて、でも、あー、最後ってやっぱ愛なんだなーっていう。陳腐ではありますが、それゆえにとても大事で、そこを信じないと前に進むことは、生きていくということは難しいよなという気持ちになりました。

最後に出てくる百瀬というキャラクターは、万能感があって物語的にも主人公にとっても都合がいいやつが出てきたなあと冷めることもできますが、その万能感を与えるキャラクターの背景には、台湾に対する歴史をはじめとした知識があり、それを正しく使うことができることによるものだと感じました。ここでいう正しさというのは、歴史(本書においては台湾)を踏まえたうえで、配慮とか、気配りといった、他者と生きていく中で当然のことではあることは分かっているものの、繰り返す日々の中で忘れてしまうこと、自分にとっての「ふつう」「あたりまえ」が他者の尊厳を蔑ろにしていないかということを自分自身に問い続けるという、ある種不可能に近いことではありますが、そのときの自分にできる最大限をもって他者とかかわりあおうという姿勢、のようなものだと私は思っています。わたし?わたしはできてないなー。言葉を選ぶよりも、何を伝えるべき情報かを考えてそれを直截に部下には言ってしまっている。多分、むちゃくちゃ部下にはストレスになっていることは想像に難くないし、ダメだなあと1日を振り返る度に思っているのだけれど。ダメです。成長ゼロ。

この本、なんかジェンダーだかクィア関係の本で良いと紹介されていて(しかも複数の本で)それで気になっていて、文庫化して並んでいるのを本屋で見たので購読したのですが、私の好みでした。自分が初めて小説には読む価値があると感じさせてくれたのが島崎藤村『破戒』で、あれもマイノリティの主人公がそれでも生きていく話でそこに惹かれたのですが、温又柔『魯肉飯のさえずり』もそういう性格があって、私の琴線に触れたのだと思います。特段お勧めはしませんが、非常に良かったです。世の中に、この小説のように、マイノリティが救われて欲しい。

 

葬式ですが、随分急だなと思っていたのですが、本当に急に亡くなったようで、死の準備ができていないまま火葬まで終わってしまったような印象でした。葬儀のプロセスが合理化された結果、愛別離苦による感情がその場で出にくくなっているのかなという気がしました。葬儀においては、感情の動きを小さくすることが葬儀の合理化に資するのではないか、という配慮みたいなものが働いていそうというか。

 

いやあ、それにしても移動につぐ移動で疲れました。この1週間でどれだけ電車とバスに乗っただろう。

帰りの新幹線はグリーン車に乗ったのですが、席を後ろにするのがデジタルだったり、足元のスペースに余裕があったりして、なかなか快適に過ごせました。時々グリーン車に乗ろう。

 

では、ごきげんよう