エルネスト・ルナン『国民とは何か』(講談社学術文庫)の感想

ナショナリズム論を考える中で、19世紀における重要な文献ってなんだろうと考えたとき、フィヒテドイツ国民に告ぐ』とルナン『国民とは何か』がなんとなく思い浮かびます、というか、ナショナリズムに関心がある方の多くが当然のこととして思い浮かぶことかと思います。

フィヒテにおいては、ナポレオンの進軍によりプロイセンは領土の多くを奪われた中で、国家を再興するためには何が必要なのかを教壇から訴えたものであったのに対し(と言いながら、私は未読です)、ルナンにおいては普仏戦争でのフランスの敗北、政権の崩壊、アルザス・ロレーヌの割譲といったことを背景に、「国民」とはいったい何なのかを、一般的に解釈されてきたことを一つずつ批判していき、

国民とは魂であり、精神的原理です。(p.34)

という結論が導き出されていました。うーん、なんというか、いろんな学術的な何某かをもってきて、(自国の)ナショナリズムを肯定的に主張していく内容よりも、批判しづらくて、ナショナリズムということを捉えるうえで、重要な指摘であり、必要条件のように感じました。つまり、本文において例示されているような「人種」「言語」「宗教」「利害」「地理」などといった史学的な連続性から、「国民」というものは切り離されているということは強調してしすぎることはないでしょう。

また、これは私のナイーブな感想ですから、大したことではないのですが

健全な精神を熱い心をそなえた大きな人間集団が、国民と呼ばれる道徳意識を作り出します。この道徳意識が、共同体のために子を放棄することが求める数々の犠牲によってその力を示しているかぎり、国民は正当なものであり、存在する権利があります。

という主張には、ウェストファリア条約以降のヨーロッパにおいて支配的であった、国民に対する国家主権の偏重の影響下にあることを感じざるを得ない一方で、ローマにおける兵役の義務を通じた解放奴隷のような、「魂」「精神」を持つものは国民になることを妨げられないというある種リベラルな思想を感じ取ることもできます。訳者解説において、ルナンが『科学の未来』の序文で

人種の不平等は証明済みである(『国民とは何か』訳者解説 p.53)

ということを通じて、彼がレイシズム的な価値観を持っていたということを述べていますが、これは、例えばヘーゲルの『歴史哲学講義』においてアジアについてかなり偏った観念を持っていた一方で、これは一定の歴史的なことを背景にした価値観の制約と捉えるべきであり、徒にその点を強調する必要はないのではないかと個人的には思いました。もちろん、そうした主張をルナンが行っていたということを知っているか、知っていないかでは、当然後者であるべきであり、ルナンのもつリベラル性について一定の留保が必要であるということはその通りだと思います。

 

また訳者解説において、昨日のブログにも書きましたが、ゲルナー、アンダーソン、スミスが紹介されているという現代のナショナリズム論における古典が紹介されているだけでなく、ホブズボーム、マイネッケ、シュナペールといった文献一覧がある点は非常に親切で、気を配れている本だなあと感じました。

 

帯には

国民の存在は日々の人民投票である。(p.36)

という文字がプリントされていますが、私としてはそこよりは

忘却、あるいは歴史的誤謬と言ってもかまいませんが、それこそが国民創造に不可欠な要因なのです。(p.14)

の方が印象に残っています。

 

日本のナショナリズムにおいては橋本文三ナショナリズム』という優れた書籍がありますが、敗戦後において戦争期における「国民」概念の反省、というか振り返りみたいな本で、良い作品に私は出会えていなくて(姜尚中ナショナリズム』思考のフロンティア、のち、講談社学術文庫という本がその辺りをテーマにしていますが、なんというか晦渋な文言、概念を駆使して、氏の見方を提示しているにとどまっており、何か学術的な説得力や論理性みたいなものを私は感じませんでした。当時の私の力不足だったのかもしれません。それであれば、ナショナリズムではないけれど、加藤典洋敗戦後論』の方が面白かったかも。でも、あれも序盤は私にはよく分からなかった。当時の空気が凝縮されていたのだと思う)何かあれば教えていただきたいものです。

 

今日は、ゴルフスクールと整体に行ってきました。痔が復活したっぽくて最悪な気分です。串焼き屋にひとりで入ろうと思ったら満席でダメでした。悲しい。

 

では、ごきげんよう