私の職務経歴について(2)派遣社員編

前回までのあらすじ

4年生になっても必修科目のドイツ語の授業で1年生と混じりながら、就職活動を始めるも、面接試験で落とされまくった私は、ドイツ留学と大学院試験にチャレンジするもどちらも不合格。親には4月から働けと言われていた。私、これから一体どうなっちゃうの?

 

本題

2月だか3月だからくらいに大学院試験の結果が来て(ペーパーで受かって面接で落ちたから結果が出て進路をどうするかを判断する時間がかなり後ろになった)4月からは働けと言われても、とてもじゃないが新卒でまだ募集している会社にはろくなものがないだろうと思ったのと、自分は総合職みたいなスタイルで働きたくないと思ったのとで、バイトをしながら何か自分がこれなら嫌でもギリギリ働けるかなと思う仕事を探すことにしました。

すぐに労働を開始しなくちゃいけないということもあり、媒体は何だか忘れましたが、派遣社員として糊口を凌ぐことにしました、とはいえ実家暮らしです。

私が大学卒業した当時は、リーマンショック消えた年金問題、最低時給1000円構想、派遣村などが話題に上がっていて、景気としては決して良いとは言えず、私の同期でも学位での就職が難しくなって大学院に進学する連中がいました。

私はヒューマントラストの派遣社員として、年金関係の書類を処理する仕事をしました。そこに集められていた人は、私が一番若くて、個人事業をしていたが収入がなくなって派遣社員になった人、恐らくフリーターみたいなのをずっと続けることになってしまった人、派遣を複数掛け持ちしている人など、様々な人がいました。時給は確か当時の最低賃金、交通費の支給はありませんでした。国際展示場前の近くに住んでいる人など当然多いわけはなく、1時間分の時給は交通費で飛んでいくような環境でした。

私は当時、派遣におけるお金の動きとかを意識していなかったという意味で純粋な気持ちで仕事に取り組んでいて、業務量は恐らくそのメンバーの中では最も一番こなしていたと思います、それによって自分も評価されるんじゃないかという気持ちもありました。ですが、少なくとも自分が置かれていた立場では、そういうものは結局一切ありませんでした。書類の処理してるだけだし、派遣だから繁忙期だけ雇って、それですぐ終わりという業務なので、今となってはそれはその通りだし、適当にやったって良かったよなとは思いますが、自分なりに必死に仕事に取り組んだということは良かったことじゃないかなと思います。

また、この頃、朝日新書で『派遣の逆襲』という本が出ていて、それを読んでいつか逆襲してやるぞという気持ちで読み始めたのですが、結果として、派遣の逆襲というのは制度的に厳しいので、自分一人が何かをすることで職歴をステップアップするのではなく、制度自体を変えていく運動が必要があるという見解で、落胆した記憶があります。

年金事務所の繁忙期は4月(入社のタイミングで保険加入するから)で、5月半ばくらいには派遣は終わったんじゃなかったかなと思っています。

余談なんですが、勤務していた場所は、東京すべての書類が届くらしく、大学の先輩(1留して同じ年に卒業になった)の名前が書いてある書類も処理しました。こんなことってあるんだなーと思いました。

あと今ではそんなことはまずないでしょうが、私が派遣していた頃は派遣会社が源泉徴収票を出すということは本来であれば必ずすべきですが、かなり適当に扱われていて、源泉徴収票が渡されないケースもありました。これは、後々問題になった気がしますが、派遣社員への支払いをなんか変なことしていたんだと思います。

先にも述べた通り、派遣社員としてくる人には様々な人がいましたが、私は端的に言って社会の競争の中で負け組の居場所が派遣社員だと感じました。スキルにも何の役にも立たない書類処理を交通費なしの最低受給で必要なときだけ使われる、私はまだ大卒してすぐだから適切にスキルを身につければ何とかなるはずだし、手抜きをしたら本当にここから上がれなくなるという恐怖心がありました。これは今でも仕事において時々思い出します。

さて、そんなわけで私の派遣社員は繁忙期だけという短い時間で、すぐに次の仕事を見つける必要がありました。派遣社員の境遇、どのようなスキルを身につければ競争に立ち向かえるか、そんなことを当時の私は考えていたと思います。次回、フリーター編、また気が向いたら書きます。

 

では、ごきげんよう