昨年を振り返り、今年をどうしたいか

去年、年初にどういう年にしたいかということを書いたか思い出すために、2022年1月のブログ記事を見てみたら、こんなことが書いてあった。(というか書いてあることに驚いた)

 

自分が今後、2022年に何をしたいかということについて考えても、正直、ただ静かに時間が過ぎていき、浮き沈みがなければそれでいいという気持ちしか生まれてこない。

(中略)

来年はこの記事を読み直して、あほくさwと笑い飛ばしたい。

https://kajiyama-nataku.hatenadiary.org/entry/2022/01/03/000530

 

切実で率直な書きぶりで、大きなダメージを食らった。っていうか、私ってブログでこんなにさらけ出していたのかということにビビった。ほぼ誰も見てなかったから良かったけど「そういえば、先日ブログでつらそうで、大変ですね......」みたいなことを言われたら恥ずかしさのあまり、山手線に飛び込むかもしれん。今の私は静かな時間を過ごせてはおらず、あほくさwと笑い飛ばす気力はない、一切ない、この年末年始で社会人の皮を被っていた疲労で風邪気味になり、生活リズムが崩壊している。私は現在進行形で年始に書いたようなメンタルの状況に悩まされている。なんなら2021年より2022年の方が悪くなった。趣味のために頭や手や足を動かすことはできておらず(そんな気分にすらならない)、迫りくる仕事を右から左に流すだけで終わってしまった。

 

今後、自分がどうやって生きることが気持ちよく、居心地よく感じられるのかを考えると頭が痛い。

 

私はいわゆる逆張り的な人間なのだが、逆張りググると「反主流論者」という単語が表示されて、逆張りという言葉が持っている反対のことをするニュアンスよりはしっくりくる単語だなと思いました。私がなんとなく不愉快になるのは、マイナーなコミュニティの中でアイコン的な存在や価値観がまだそれ自体としては意味が不明確で説明を要するものであり、その説明もまだ確定的なものがない状態が好きで(これはなぜ好きなのかといえば、自分が紡ぐ言葉に正誤に限らず一定の価値があったり吟味する余地があるからだと思う)それが一般化し、陳腐化すると、〇〇的なものとして大まかに一括りにされてしまって、それを言っただけで共通の何か固定的なものを指し示すような状況に対して不愉快に思うのだなと感じる。人としての器がめちゃめちゃ小さい。しかも、その固定的なものに対して、より深い洞察をもって価値観を転覆させ、新たな説を唱えるほどの器量も才覚も根性もないのでやばい。生きてる意味あるのかな。最近がっかりしたのは「ぎどれ」的な何かで、少なくともインターネットサブカルクソ野郎的な人だともうなんとなくイメージがつくような単語になってしまったのが辛い。いや、ぎどれさんも飯を食うためにはそれらを一般化しなくちゃいけないわけだし、「ぎどれ」的な創作によって救われる人も数多くいそうなやつだから広まっていくことは素晴らしいことだと思うのだけれど、器が小さい私には「ぎどれガール」という言葉によって、何事かを言っているかのような状況になったのが許せねえ。WaMiもぎどれガールになっちまったしよ.....。

まあ、でも、こういった決めつけみたいなのはある程度、コミュニケーションを円滑にしてくれる側面があるっていうか、そもそも、世の中にありふれている言葉のほとんどが何を示しているかは自明なうえで成り立っているわけであり私が私に都合が良いようにルールを決めることができないのは分かっているんですよね。だからこそインターネットでだけは好き勝手にやらせてくれという気持ちがある一方で、何かを発信することは共鳴だけでなく反発もはらんでいるものではありますが、だからこそ自分からは出て来ないような何かが生まれるんですよね、きっと。書いてて意味不明です。

 

だから、一定の性質、趣味嗜好がある自分を上手く付き合いつつハッピーに生きていくためにはどういう手段を取ればいいかが課題になる。多分だけど、自分が良いなと思ったマイナーなものについては極力発信をしない、ただ、しないとなるとそれはそれで誰も知らないままのは癪(自分が好きなものがポップのど真ん中だと私は思っている)なので、なるべく人目に触れないようなところでこれは良いものですよと発信する。そうすれば、一般化することによってゲンナリする自分を避けながら、俺はこうやって良いものを伝えようとしているという自意識を満たすことができる。そう、今の規模のようなはてなブログは絶好の場所である。っていうか、言ってることがいちいち人としての器が小さすぎない?書いてて虚しくならないのか?

 

そんな中で必要とされるのは、そうした自意識を肯定してくれる存在であり、それはつまり、オタクに優しいギャル、2022年冬アニメ、その着せ替え人形は恋をするの喜多川海夢なわけです。でも世の中にはオタクに優しいギャルはいるかいないか分からないから、私はせめてギャルに優しいオタクでありたい、そう思うわけです。ぎどれガール無問題千客万来。その着せ替え人形は恋をする、アニメ見て思ったのは1話で終わりじゃんなんですよね、俺も何かを大切にしてそのために努力を続けることができたら誰かに認めてもらえる日が来るのだろうかと思いつつ、いや、誰かに認めてもらいたくてそういうことってやってるのか、違うだろ。でも、喜多川海夢が五条新菜が五条新菜であることを肯定した瞬間が最高潮であり人生のクライマックスっていう気がするんですけど、違うんですかね......そう思っているのは俺だけなんだろうか。それを救いに残りの人生を歩んでいくことができる気がするんですよね。だから私はあれが全1話で二期とかマジで意味不明なんですよ。でも、確かにその後の人生の方が長いんだから、二期も三期もあるのが当然の流れということなんだろうか。っていうか喜多川海夢可愛すぎるし、良い人間すぎて驚いた。(1話を見直しながら書いてる)私は否定から入る人間だからなんとかしたい。いやなんとかしたいってお前アラフォーだぞ。タヒんでください。(これを「たひんでください」って読むのを最近知った)っていうか、マジで五条くんにキモイって言った女、ふざけてんのかよ、お前の一言で五条くんが死ぬまで傷ついて生き続けることになったのかもしれねえんだぞという強い気持ちを持っていたことを思い出した。っていうか、喜多川海夢のすっごーいってけものフレンズオマージュかな、良いね......。爪も可愛い。喜多川海夢見るたびにインダストリアルピアス開けたいって思うんだけど、なんで!?

 

一体俺は何を書いてるんだ。

 

つまり、2022年のclover works作品(明日ちゃんのセーラー服、その着せ替え人形は恋をする、SPY×FAMIKY、シャドーハウス、ぼっち・ざ・ろっく!)良かったですねっていうことなんですよね。いや、全然違うし、そもそも私はアニメを見ていない。

 

他人の趣味に否定から入らない。今年はまずここから頑張ろうと思います。でも、他人の趣味についてそろそろ接する機会なんてほぼない。人とかかわることがなければそもそもステージに立つことすらできない。俺はステージに立つことが許されないアラフォー。それに引き換え後藤ひとりはギター弾いて、作詞して、学園祭に出て、立派になったねえ......。

そういえば、くすながさんが後藤ひとりはチャンネル登録数3万でその世界の中では間違いない成功者であるにも関わらず、学生生活でもあらためて成功する話を描くというのがしんどかったと言っていたのと、すけあさんがあのバンドに書かれていたような「容易く心触るな」といった情動がスポイルされ消費される側の青春を描いているのではないかといっていたのは印象に残っています。

 

っていうか、今年をどうしたいかだった。とりあえずは仕事の繁忙期を無事に終えたい。これは仕事の話なんだけど、もう生活というか自分の精神力のリソースの大半が仕事に振り分けられていて、息抜きなんてする余裕はない、趣味をどうするとか以前にそれを無事クリアできればあとはなんでもいい。捕まらないとか大きな怪我や病気をしない。当たり前のことを当たり前にクリアする。それは当然なのだが、それしかできなくなっている自分がいる。嵐に巻き込まれないと踏み出せなくなっている気がする。こんな現実から誰かに連れ去ってもらいたい人生だった。何もしてないけど疲れた。人生という道中、まあ、親族付き合いというものがあるかもしれないが、これから先はほぼ自分ひとり、誰かが一緒にいたらそれはそれで面倒なことも生じることを思うと気楽に構えていていいのかもしれない。だいたいは金で解決できる問題ばかりだし、自分のメンタルはだいたい音楽で解決できる、世の中の喧騒から遠ざかりたい。それらで解決できない問題が目の前にあらわれたとき、私はどうするんだろう。例えば、戦争とか。

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年始早々風邪を引いている。去年もそうだった。

では、ごきげんよう