他者を生活に受け入れることについて

私は他者を生活に受け入れるということは、基本的に自分のリスクをヘッジするもので、その引き換えに相手のリスクを引き受けるものだと思っていたのだけれど、なんかいつだか忘れたのですが、生活がだめだめな人がペット飼うといいよというアドバイスに対して、自分はだめだめだから他者の面倒なんて見られないですと回答したところ、ペットのためにお前が頑張るんだよという返答がかえってきた、みたいな内容だった気がする。自分にはそういう考え方が全くなかったので、他者を引き受けるというのは、他者を背負う覚悟であり、リスクとか打算みたいなスタート地点ではないのだなと思った。なんというか、古代において子どもは労働力だから出生率がクソ高いというのは、ある一面においては正しい一方で、それにしたって労働力にならずに死ぬ子どももいるわけで、そういうことを考えるとなかなか複雑なのかもしれないなと思った。近年において、モノの価値が貨幣によって評価される現代において、ペットを飼った場合の出費や子育てにおいてどれだけお金がかかるかという視点が生活スタイルの価値観の中で重きが置かれるようになった現代において、そういうお金に置き換えられない価値というものが自分の生活の中ではかなり遠くにあるというか、生きるということ、再生産するということはなんだか難しいなと思った。

 

今日はゴルフの自主練に行った。2週間ぶりくらいで探り探り練習した。前回の練習で、捻転ではなく腕や手を使ってスイングをしてしまっていたので今日は5,6割くらいの力をイメージしながら、身体の回転とスイングが連動するようにイメージしながら練習した。正直、ちゃんとボールにヒットしないことの方が多かった気がするが、スイングについては身体の回転を意識しながら、狙った練習ができたと思う。ただ、それを意識しすぎた結果、インパクトのときに手首を返してしまい、フックするのと、ドライバーでは身体の開きが早くてスライスしてしまうのと、ユーティリティの打ち方が分からないというのが良くない点ですね。もう少し6割くらいのスイングで練習しながら、少しずつフルショットもするようにしながら、コーチにユーティリティの打ち方を教えてもらうようにしようと思います。

 

100分de名著の風姿花伝を読了した。風姿花伝への入門書というよりは、もっと広い意味で風姿花伝と能を通じたエッセーのような印象を受けました。自分が求めていたのはもっと学術的というか、時代背景だったり能の歴史、その歴史の中で世阿弥風姿花伝というのはどういう位置づけになるのか、ということを知りたかったので、あらためて別の本を読んで学びたいなと思いました。最近、少しずつだけれど趣味の読書にも時間を割ける(といっても一週間で片手で数えられる時間ですが)ようになってきたことは良いことだと思う。この2週間調子がよかったら、少し薬を減らそうと思っています。GWは一度くらいは出かけようかなと思っています、あまり天気が良くないようで残念ではありますが、まあ、良いでしょう。今年の御神籤は凶だったしね。

 

では、ごきげんよう