リベラルでありながら権威主義的で家父長的であること。

 タイトルのことは、例えば、丸山真男をひっぱたきたいにおいて露呈したなあというのが、自分の個人的な感覚としてあるのですね。どこの馬の骨とも知らない人間が、極端なリベラル、左翼的(保守/リベラルという対立軸を前提に)な主張をしていたときに、保守的であり、権威主義的に反応をするということは、理論的に正しいかは置いておいて、なんとなく、感性としてあるんだなと。お前がルールを転覆したいということや主張について言っていることはは分かるが、世の中には一定のルールがある程度の時間を経て正当性を獲得してきているのであり、それを変えようとするときには革命的な方法ではなく、マイルド、漸進的変えるべきであり、まずは、自分の主張それ自体を批判的に考察すべきではないかということですね。

 これに対して、ある意味ではバカ正直に訴えを受け止めて、確かにその通りだ、私たちも安全なところにいて気づけない部分があるから、君の主張をしっかり受け止めて考えなくてはならないという応答をしたのが唯一、吉本隆明であったわけですが、って何の話をしているんだ私は。

 結局、この辺りのことは、往々にしてポジショントークなのだなというのが、感覚としてあるなあという話です。でも、私が、そういう話をしたいのかというと別に今はそういう気分ではない、けれど、なんとなく思い出したので書きました。

 

 いずれにせよ、私のうんざりさせられる人生は今も続いているのであり、超越的な何某かからお前はもう死んでいいので明日死にますといって赦されたい。私がこうして辛い(と感じる。ただ、私は宗教的な人間なので、世の中を良い形で変えることが人間の使命であるように感じている)労働をさせられて、その結果として、世の中を良くしたもしくは、もうお前は見込みがないというかたちでの死を待っているような存在ですし、私は私自体といい加減付き合いたくないのであるし、私と付き合っている会社の連中にも申し訳がたたず、一刻も早く死を宣告されたいという気持ち以上のものはありません。

 

 では、ごきげんよう